Oko diary

雑記ブログです。日々思ったことを書いてます。音楽、映画、読書なんでも好きです。

会えない時の為にこんちにはとこんばんは おやすみ

3日間の出張の最終日

その帰り道。

電車で未開の地に行くと車窓からの景色に見とれてしまう。

大きな倉庫や工場、高層ビルやマンションがスライドショーのように移り変わる。

一体どれくらいの人がここに住んでいるのだろう。

駅までの道中にいた無邪気に手を振る子供らを見て、君の父さんもここで働いているのかななんて思ったり。

景色は澄んだ海ときれいな空に変わった

空に浮かぶ雲を見たときに絵に描いた張りぼてようだなと思った。

 

私は映画「トゥルーマンショー」を思い出した。この作品は特に思い入れがある

作品の一つだ。(見たことがない人はぜひ見てほしい。)

作中にも張りぼての空が出てくるがそれに似ているなとぼんやり思った。

 

もしかしたら私の人生もトゥルーマンのように閉鎖空間ですべて誰かのシナリオのもとに動いているのかもしれない。

たかだか40人程度いる部屋で埃っぽくさびれた事務所。

上司の指示のもとに動き、上の人が考えていることが正しいと刷り込まれ自分の考えていることがマイノリティなのだと節々に感じさせられる。

自分が考えたことも実はちっぽけなことで誰かに操られているのかもしれない。

(大袈裟だな)

 

だから私は一人で旅に出たくなるのかもしれない。

自分の意志で生活圏外に出ることにより今自分の人生をちゃんと生きているという確認行為をしたいのである。

自分の世界はそんなちっぽけなものではないしそうしたくない。

もっと広大でときめきがあり美しいもののはずだ。

そう思う、そう思いたいからこそ私は旅に出たいのかもしれない。

今週は会社の指示で外に出たが今度は一人でまたここに出かけよう。

 

”会えない時の為にこんちにはとこんばんは!おやすみ!”

 

それでは また明日

 

数的不利なお弁当 

今日のお昼は私にしては珍しくお弁当を食べた。

出先であまり時間がないということもあり

売店で売っている500円くらいの安い奴を買った。

 

私はお米が大好きだ。

母から「ごはんはおかずと一緒に食べなさい」という教育を受けていたので、

基本的にごはんがないとおかずが食べられない体になってしまった。

焼肉の時もごはん

揚げ物にもごはん

ラーメンにもごはん

酒のつまみとビールとごはん

ファミチキにもごはん

牛丼は自宅に帰って追いご飯

逆に言うと少ないおかずで茶碗1杯平らげれる。

ごはんとおかずの比率が9:1でも私は戦える。

 

なので私は市販の弁当を買うことがめったにない。

最近コンビニ弁当は不景気の影響もあってかさらに少なくなっているのではないか?

市販の弁当のごはんとおかずの比率は約6:4。

6:4ならまだいい。深刻な時は4:6の時だ。

 

読者の皆さんはどれくらい深刻かわからないだろう。

サッカーで例えると

我々ごはん側のチームのゴールキーパーがレッドカードで退場し10対11と

数的不利な状況になるくらい深刻である。

誰が代わりにゴールキーパーをするのか?

誰が二人分敵をマークするのか?今後の戦術、

チームのフォーメーションに大きくかかわってくる。

市販の弁当もそうだ。

主食に対して一口どれぐらいのごはんで臨めばいいのか?

副菜は一口で食べれるのか?

主食の下に敷いてあるパスタは薄口か?

そもそも我々陣営に残されたごはんは?

監督の私は市販弁当に挑む時

頭をフル回転させなければならない。

もしも私が考えた戦術に不備があれば

おかずが残りごはんなしで食べることになる。

そんなお昼はいやだ!

 

ここは都市郊外、某スタジアム近辺

プラスチック容器の上で行われる試合を、

私は頭をフル回転させながら黙々と食すのであった。

 

それでは また明日。

 

 

動く歩道 歩くか 止まるか

ディズニーランドに他県から新幹線で来られる方は知っていると思うが

東京新幹線の改札と京葉線の間に動く歩道がある。

今日はその動く歩道を利用した。

ja.wikipedia.org

新幹線の改札から京葉線に向かう動く歩道が1本あり、

その隣(左手側)にはふつうの通路がある。

ラッシュ時は比較的に人がその二つの道に均等に分かれる。

動く歩道にのり、歩くサラリーマンたちに歩調を合わせながら通路をみる。

すると自分の歩く速度と通路の歩く速度との差で独特の浮遊感を感じるのだ。

自分はただ普通に歩いているだけなのにぐんぐんと通路を歩く

歩行者を抜いていくのはなんとも言えない爽快感と他人より

前に進むという優越感にひたれる。

まるで自分だけ進む時間が早送りになったような、時間を可視化したような感覚に

なる。(ドラえもんでそんなコマあったな)

時間というものは目で見るとこんな感じなのだろうか?

時というものはあまりにもあっけなく感じる。

是非皆さんもディズニーランドや千葉に御用がある時は動く歩道に乗って左手側を見て時の流れを感じてください。

 

いや待てよ

 

この動く歩道エスカレーター同様に”止まる派””歩く派”論争がある。

安全性と合理性を天秤にかける分”キノコの山派””たけのこの里派”論争より

根が深い。(就活のグループディスカッションとかのお題になるんじゃないか?)

そもそも、よそ見をしながら歩くのは褒められたものではないしブログのような

ソーシャルな場で危険行為を勧めるのはいかがなものか。

何なら安全面のことも考えると私は”止まる派”に一票入れたい。

歩く派「でも止まっていたら急いでいる人の邪魔になるじゃないですか!」

うーむ。確かに。急いでいるから動く歩道を使っているわけであって通勤ラッシュ等は皆急いでいるので止まっていると流れを妨げることになる。

現に長い通路の人流をさばく目的で導入されるものなら歩くことを推奨しているそうだ。

止まる派「でも歩いて転んでけがでもしたらどうするんですか!」

そう…ですよねぇ。実際に日本エレベーター協会も手すりにつかまって止まって乗ることを推奨している…。調べた限りけがをした事例は見当たらなかったが、

危険予測の観点からけがをする可能性は十分ある。

 

なんてことをブログを書くときに悶々と考えていた。

何の気なしに動く歩道をテーマに考えていたが、

考えれば考えるほど記事にするのがむずかしいぞ…。

たかが日記だがされど日記。

なるべく正しいことを書きたい。

この話題没にしようかとも考えたが、

いったんパソコンを閉じて夕食を取り風呂に入ってリフレッシュすることにした。

今戻ってきて全文読み返してみた。

書いていて気付かなかったが

そもそも動く歩道だろうが通路だろうが

よそ見をしながら歩くのがだめじゃねか…?

 

そりゃ危ねぇよ、前向いていないんだから。

というかよそ見せずにまっすぐ歩きなさいって

小学生の時も言われたような…。

え、もしかして私小学生から進歩してない…?

あまりに初歩的なことを見過ごしていた腑抜けた自分と、

小学生の頃から成長していない自分に心底がっかりしている。

もう一本酒でも飲もうかしら。

結論、私がよそ見して歩いているのが悪いということで

いや…まぁ…はい…すいませんでした…

 

…皆さん

 

動く歩道だろうが通路だろうが何だろうが

歩くときはしっかり前を向いて歩きましょう。(歩きスマホとかもだめですよ!)

 

今日こんなオチにするつもりじゃなかったんだけどなぁ…

 

それでは また明日…

台風とわくわく

皆さんは子供のころの台風の思い出は何ですか?

 

起きたら学校が休みになり、普段開きっぱなしの雨戸は閉められ、テレビのニュースでは台風の情報ばかり流れ、給食の代わりに母の手作り焼きそばを食べ、夜はろうそくの明かりで過ごす”非日常”にわくわくしたのは私だけだろうか?

なんでも人は台風が来ると本能的に危険を察知しアドレナリンが多く

分泌、その結果興奮状態になり人によってはわくわくするのだそうだ。

おそらく自分はアドレナリンの興奮状態がわくわくに変わるタイプの人なのだろう。

学校とかで誰かが喧嘩をしだしたときも、だめだよーなんていいつつ腹の中では

すごくわくわくした。何が起きるのだろう?これがもっと大事になったら

どうなるんだろう?と。

私は比較的多くの人に”優しい””お利口さん””真面目”という善人を煮詰めたような評価を

受けるがそんなことはない。日々トラブルを起こしそうな人の近くに行き

何か起こるのか見たいだけである。むしろ悪人に近い。

私は人に誇れるような人間ではないとおもっている。

つくづく人の評価とはあてにならないと感じる。

他人はいままでの行動、結果だけを見てその人を評価する。

自分自身の本質は”過程”である。

なぜそれを行ったのか?

なぜそう考えたのか?

そこで出てくる単語こそ人の本質的な欲求である。

 

そう思うと血液がぐつぐつ煮えるほどわくわくする事は

私の根幹的な欲求なのかもしれない。

田舎から都会の大学に進学したのも

私が大学時代軽音学部に入ったのも

一人で出雲大社に車で8時間かけて行ったのも

友人と四国一周したのも

すべてはわくわくする(したい)自分の欲求からでた行動である。

そうした欲求の元に選択したものは例外なくすべて満足いくものである。

 

最近はというとそんなわくわくはめったに起きなく普通の日々を過ごすだけになっている。仕事内容も慣れてきたことによるマンネリ化がひどい。

転職サイトで求人を探してみるも行きた会社がない。

厳密にいえば条件のいい会社なんていくらでもあるが、

そこに入っても業務内容的にすきなことではない。

そんなことを6月から今日まで続けているのだから

自分の求める会社はどこにもないのではないかさえ思う。

自分の未熟さを痛感し好きなことでは食ってはいけない社会の厳しさをまざまざと

感じさせられた。

こんな自分のままではいけないと色々と考えをめぐらす中で

ひとつブログを始める結論に至った。

自分の考えを文字にしてまとめて発信することから始めてみようと

おもった。

初めて5日。まだ100人も見ていないが誰かが見てくれるたびに

あの頃のわくわくがよみがえってくる。

まずは1か月頑張って続けよう。

 

皆さん台風には十分気を付けて

 

それではまた明日

夏の忘れ物を食べる

我が家のプチルールとして早く帰ってきた方が晩御飯を作るようにしている。

基本的に私の方が帰ってくるのが早いので私が作る頻度が多いのだが、

何分やる気の出ない日は家に着いた瞬間肉ベルトを脱ぎ捨て

ソファーにダイブする。TwitterInstagramyoutubeを一通り見た後、

ニンテンドーswitchをつけて今流行りのAPEXをやる。

APEXはもはやパチンコと同じだと私は思う。

負ければイライラするし

配偶者との喧嘩の元だし

勝ったときにあふれる脳汁はもうたまらん!

あれは現代のデジタルドラッグである。

そんな”しゃぶ漬け”の私を見た妻はもちろん怒る。

そりゃそうだ。皿も洗っていなければ、ご飯も炊いていない

挙句疲れて帰ってきた部屋には半裸の男がゲームをしている。

この男が一家の大黒柱なのだから本当に目も当てられない。

私だってそんな配偶者いやだ。本当に申し訳ない。

 

しかし今日は帰ってきてからすぐに皿洗いから始めた。

いつもと事情が違う。

どうしても食べたいものがあったのでゲームをしている場合ではなかった。

私は冷蔵庫からゴーヤと卵、豚肉を取り出した。

読者の方はこの食材で何を作るか察するだろう。

そう、ゴーヤチャンプルである。

cookpad.com

 

今年の夏はゴーヤチャンプルを食べていない。

実家にいたときは夏には決まって食べていたので

久しぶりに食べたくなったのだ。

私はゴーヤチャンプルが好きだ。

シナシナのゴーヤをしょっぱいたれと卵でコーティングされた豚肉で包んで食べる。

醤油だしのしょっぱさとゴーヤの苦み、豚の風味がもうたまらん!

もう一度味わいたい。

そう思い事前にゴーヤをスーパーで買っていたのだが私の料理の師匠

クックパッド先生曰く木綿豆腐がいるらしい。

うちの母が作るゴーヤチャンプルには木綿豆腐が入っていなかったので、

あまりなじみがなかったが。

なるほど確かに木綿豆腐を入れてみてもいいかも。

玄米ごはんを炊いている間に近くのスーパーに買いに行った。

いざ自分で作ってみると発見がある。

ゴーヤは苦みを抑えるために塩水に10分つけるだとか、

豆腐はキッチンペーパーで包んで1分レンジで温めて余分な水分を

飛ばして焦げ目がつくまで事前にフライパンで炒めるだとか。

何気なく食卓に並んでいた料理も手間暇かかっていたんだなと

しみじみ思う。

母はよく私の好きな料理を作ってくれた。

エビフライ

豚の角煮

カレー

筑前

唐揚げ

どれも自分で作ってみると手間と時間がかかる料理である。

それ以外に副菜やみそ汁も作ってくれたのだから頭が上がらない。

実家を出ると母の偉大さを感じる。

 

できたゴーヤチャンプルはとてもおいしかった。

実家で食べるのとはまた違ったおいしさがある。大満足である。

妻もおいしそうに食べてくれるから料理のし甲斐がある。

なんでも妻の実家では豚肉を入れないそうで、ゴーヤの苦みが苦手だったのだが

これなら食べれそうとのこと。

 

結構作りすぎたので余りは冷蔵庫に入れておいた。

少し前は涼しかったのにまだ残暑が残っている。

明日すべて平らげよう

 

 

それでは また明日。

 

 

 

 

 

 

 

丁寧な暮らしってなんだ??

丁寧な暮らしとは何だろうか。

そう思ったのはこの動画を妻とみていた時である。

 

www.youtube.com

アゼルバイジャンに住んでいる

おばあちゃんがいちごを使ってジャムやケーキを作る”

というよくある海外の生活を切り抜いた動画である。

私はこの手の動画はよく見る。

自分が経験しないような暮らしを疑似体験できるので

見ていて面白い。

(あと動画の中のワンちゃんがかわいい 飼いたい)

動画を見終わった妻が一言

「はぇー、丁寧な暮らしだねぇ」

とつぶやいた。

 

丁寧な暮らし…?

 

私事で大変恐縮なのだが丁寧な暮らしというワードを初めて聞いた。

暮らしに丁寧も雑もあるのか?

暮らしとはもっとこう…なんか別の形容詞が付くもんだ。

…いやなんかはわからんけども!

そもそも暮らしにおいて丁寧とは何なのか

確かにアゼルバイジャンのおばあちゃんが作ったケーキや

ジャムは手間暇かかっていた。

料理に手間暇かけるのが丁寧な暮らしなのか?

いやいやそれなら”丁寧な暮らし”ではなく”丁寧な料理”ではないか?

意味を調べてみると、丁寧とは細部に注意や気配りが行き届いている様をいう。

それなら今日やった部屋の掃除も”細部の気配り”といえば丁寧な暮らしをしてるといえるのではないか?

いやいやいや、そんなたいそうな生活を送っている自覚はないぞ!?

明日仕事にもかかわらず晩御飯はビールと餃子を食らう始末。

到底そんなことをしているとは思えない。

ひとりで悶々と考えるのも何なので妻に意味を聞いてみた。

「なんていうんだろう生活のひとつひとつ手の込んだ作業をすることかな?

「ジャムを作ったり、コーヒーを作るのも丁寧な暮らしだし」

「丁寧な暮らしとは心の充実なのだ!」

といっておる。

何を言っているんだこいつは。

なんでも女性雑誌が発端であるそう。

バレンタインやクリスマスのようなお金のにおいがする。

ただそういったことを意識して生活するのもブログの種として

いいかもしれない。

 

やろう、”丁寧なくらし”

 

それでは また明日。

 

 

 

 

NETFLIXのせい

今日は一日掃除dayだった。

うちにはリビングと寝室以外に部屋が一つあるのだが

そこがほんとに汚い。

たまった段ボールや空のペットボトルがまとめておいてある。

LDK以上の部屋に住んでいる2人暮らしあるあるだと勝手に

私は思っているが余った一つの部屋が倉庫になりがちである。

 

そんな”汚”部屋のなかで片付けるのに一番困ったのが本である。

特に今年買ったジョジョ1部から6部までがひどくスペースを使っていた。

家には本棚がなかったのだが本棚とはかなり置く場所を選ぶ家具だと私は思う。

機能性があるがスペースをひどく使う場合や

スペースは最小限だが入る本が限られていたりする。

本来ならどんな本を何冊置くか計算して部屋の寸法も把握して

本棚を選定するべきなのだか、めんどくさがりな私がそんなことを

やるはずもない。

しかし本棚がないと今のように床に本を置きっぱなしになり、

スパイが敵のアジトに侵入するように慎重に部屋を入らないといけない始末である。

なぜ家主がそんなことをせねばならんのだ。

そこでその部屋にある押入れを空にしてその中に本棚を自作でつくることにした。

DIYである。

と言いたいところだがうちは賃貸なので部屋に穴はあけられない。

(あと木を切ったりするのがめんどくさい)

そこで発砲スチロールと板を買ってきて簡単な本棚を作ることにした。

最初は「これで本棚ができるのか?」と疑心暗鬼だったが

いろいろ工夫をすればなかなかよさげな本棚ができた。

今度作り方を書こうと思う。

 

できた本棚にジョジョ全巻を入れていくとだんだん読みたくなってくる。

今アニメが9月から配信されていると聞いたので、

ひと段落してからアニメ6部を見始めた。

止まらない止まらない

 

気づいたらblogを書く間もなく日をまたいでしまっていた。

まさしく時間泥棒じゃあないか!!

日をまたぐ投稿を許してほしい。

 

全部NETFLIXのせい。

 

今日もまた